2019年12月15日日曜日

HUMAN LOST 人間失格


※本ブログでは同名の太宰治原作作品についてはこれでもかと触れない。


「いやぁ久々にこんなアニメ見ちゃったよ~」とニマニマしてしまう懐かしさは、おそらくは2014年公開の『楽園追放 -Expelled from Paradise-』以来だろう。

同じく3DCGアニメーションであり、内容は古き良き日本のSFであり、そして話としてはむしろ古臭ささえある、80年代後半~00年代前半に溢れ出ていたOVAアニメの様々を彷彿とさせる振り切った作品としての面白さを追求していた。

11月末公開であるこの作品は、恐ろしいほどに話題になっていないように見受けられる。うんしょうがない。そもそもの知名度が低い印象だ。いつの間にかひっそりとやっていると。
前述の『楽園追放』に関しては、脚本:虚淵玄というネームバリューが『魔法少女まどか☆マギカ』を経て超話題になっていた頃だったり、3DCGアニメに対して『蒼き鋼のアルペジオ』『シドニアの騎士』を経て期待が高まっていた頃合いだったため、一つのお祭り感が醸造されていたとさえ思っている。

ただ、今作はそういうわけでもない、いつの間にかひっそり公開されていて、いつの間にかひっそりと終わってしまいそうだ。
そういった哀愁まで含めて、この作品が好きになってしまうあたり、自分も大変にこじれているのだろう。

では……


○プロデューサーの発言:『AKIRA』や『攻殻機動隊』みたいなアニメを目指したい。

「おおっ! 大きく出たな! 言ってくれるじゃねぇか!」というのが、それを見た自分の第一声である。
あの伝説級のアニメ……というかその中でも、個人的には「センス・オブ・ワンダーに秀でた2本」を目指すとなれば、これはこれは難しいだろうと思っている。

……それは辛くも、時代背景がつきまとってくるのだ。

『AKIRA』の公開は1988年。そして『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』の公開は1995年。バリバリの20世紀。
SFというジャンルにおいては暗黒時代とさえ言われていながらも、しかしSFが持っていた夢そのものは全く霞んでいなかった時代だ。

しかし現代ともなると話は変わる。
Twitter上では「SFは滅んだ!」などという言説が飛び交い、現代に至るまで発展してきた技術が、それこそ耳にタコができるほど何度も「攻殻機動隊に出てきた技術が未来ではなくなった」と言われている。

そんな中、しかも2010年を超えた超・情報化社会において、「センス・オブ・ワンダー=何がなんだかよくわかんねぇ未知の領域に出会ってしまって圧倒されてしまう感動」を求めるのは非常に難しいだろう。
その衝撃に出会うには、今の時代はいろんなことを知りすぎることができて、同時に細かな感動は次々に薄れてしまうだろうと思っている。

そんな中でセンス・オブ・ワンダーをひねり出すのは相当難しいんじゃねぇかと思いつつ、しかし脚本:冲方丁ならばやってくれるんじゃねぇかと密かな期待を寄せつつつ見てみれば……


---以下、ネタバレ解禁---


○共感をさせてくるえげつなさは、センス・オブ・ワンダーから遠退く

さて『HUMAN LOST 人間失格』の世界観はとても面白い。公式トレーラーに出ている言葉さえ奇天烈だ。
「昭和111年」「年金1億円」「1日あたりの労働時間19時間」「平均寿命120歳」

医療革命によって確立された健康管理社会に対して、画面に映る人々はシニカルだ。スーツにガスマスクを被り、煙なのか靄なのかわからないがとにかく汚そうな空気の中をさも当然のように通勤している。
大気汚染が進んだ中で、ガスマスクをつけて普通に歩き回る人々……あー、なんだか、ありそう。と。

そして物語は、「人間合格式」という記念日に向けて様々な人間の思いが交錯する様を描いている。
人間合格式とは、それまでの医療で叶わなかった120歳という寿命を乗り越えた人たちが、それより先の人生を歩むための、一種の“卒業式”という区切りに親しいニュアンスだろうか。

物語中で出てくる、その合格式に出席する側の人々=老人たちは、これでもかとばかりに傲慢だ。
現役労働時代の人間を、露骨なまでに頭を垂れさせて、 「国民のため」「国のため」と言い放つ。

問題なのは、この「国民のため」「国のため」というものが、本当に何のためなのかを全く示唆されていないために、とにかく不安でしかないことだ。
1日に19時間働き、死にかけたら体内のナノマシンで半強制的に健康体へ戻されて、国のため国民のためというよくわからんもののために皆一様に、身を粉にする。

…この図式は、よく知っている。
今の世の中だ。「増えていく老人のために、若者たちが、才能があればあるほどに食い潰されている」という今の時代だ。

昭和111年という時代背景だからか、これも何度あるだろうか……
「お国のため!」「天皇バンザイ」と叫んでばかりいた太平洋戦争の狂気を持ってきているのだな、とさえ思えた。

だからこそ、この世界観が描くあまりに尖った現代風刺は、自分の身にも突き刺さる。それも嫌に痛々しく、そしてかなりの嫌悪感を伴って。

共感である。
だがその共感はしかし、よく見知ったものだ。目を背けたくなるほど、嫌というほど見てきた光景だ。
「なんだかよくわからんけどすげぇ」では、断じて、ないのだ。

……まあ「『AKIRA』や『攻殻機動隊』みたいなアニメを目指したい」のはわかるし、アニメーションとして、ポリゴン・ピクチュアズは非常に素晴らしいものを作っているし、ダークヒーローものという強烈な絵力は目を見張るインパクトを持っていることは、疑いようもないが。


○実際に「『AKIRA』や『攻殻機動隊』みたいなアニメを目指したい」を叶えたか?

センス・オブ・ワンダーという点においては、個人的には惜しくも失敗していると思っている。

何が足りていないのかといえば、「現代社会に対してロックンロールしていない」と答えざるを得ない。
現代社会をより尖らせた悪意として、とても上手に取り込んでいる。
残酷なまでに冷静に。

だからこそ惜しいと感じてしまうのだ。そんな世の中を見ていながら、しかしそんな社会のことを放っておいて退廃的な夢の世界を描こうぜ! という感じではないのだ。
それを受け手による膨大な考察で寄ってたかって、描かれていない面を浮き彫りにして、あるいはそんな風に読み取ってしまっていたからこそ、過去のそういった作品は現代風刺としての側面を強めていた。

それ含めて自分が言えるのは、冷静に世の中を見すぎていて、反旗を翻そうとしていないし、夢を見ようとしていない……だからこそ、「ロックンロールしていない」という言葉になってしまう。

……まあ、強いて、主人公がダークヒーローしているからこそ、その点でロックンロールしているという作為的なものが感じられる。
だから惜しいと感じてしまうのだが。

ちなみに、同じように残酷に冷静に現代を見ている作品として、個人的に挙げたいのは『攻殻機動隊 Solid State Society』と『<harmony/>』だ。

『攻殻SSS』では超少子高齢社会
『<harmony/>』では超医療先進・管理社会

どちらとも、『HUMAN LOST 人間失格』と近しい敵の描き方をしていると印象する。

『攻殻SSS』では、マジョリティーとなった高齢者側のエゴが幅を効かせ、
『<harmony/>』では、健康・管理社会となったからこその反旗を、主人公ではないもう一人の暗躍が話のウィークポイントとなっている。

ゆえに、この作品が決定的に他と違うのは、ダークヒーローものとして決着している点だろう。


○ダークヒーローとはなんぞや?

話は変わるけどさ! 『JOKER』面白かったですね!
『ダークナイト』のヒース・レジャーでやっていたジョーカー様とは違う、社会に揉まれて揉まれてどんどん摩耗していく、ホアキン・フェニックス演じるただの人間が、ついに狂気と悪へ落ちていく様が、痛々しくて!

……さてダークヒーローという言葉はよく聞くんだが、
『JOKER』や『ダークナイト』で描かれた、ジョーカーというキャラクターは、しかし個人的に、ダークヒーローとは言い難い。

『JOKER』で描かれる彼は、社会の抑圧から解放を切り開いてくれると信じられて象徴化された偶像だ。
社会に対して反旗を翻したきっかけではあるだろうが、しかし彼自身にそのつもりはなかった。彼は引き金ではあったものの、銃弾そのものではなかった。故に悪のカリスマでもなんでもなかった。
史実を持ってくるなら、むしろジャンヌ・ダルクのような御神輿に近いだろう。

『ダークナイト』では、本当に何を考えているかわからないからこそ怖い悪役であった。素晴らしいまでのヴィランであり……ヒーローではなかった。


では何がお前にとってのダークヒーローなのか? となるので答えておく。
「公的な正しさを持ち合わせず、しかし微かで独善的な希望のために戦う者」を指したい。

例えば『デビルマン』がそうだ。例えば『虐殺器官』のジョン・ポールがそうだ。『ガン×ソード』のヴァンもそうかもしれない。

「身近な人を守るために、他の誰かを殺める」という葛藤はヒーローに付き纏うが、ここを割り切った者でありながら、それを正しさと決して思わない者。
抑圧された社会への怒りからその糾弾のために戦う者。
復讐のために戦う者。

そんなところだろうか。

という意味では、本作の主人公は崇高な使命なんてものはないし、正義らしい正義もない。

ただ狂った世界観の社会に振り回されて、本人の紛糾という体裁と、青空という希望と呼び難いような動機を取りながら、その尻拭いを押し付けられているだけの存在だ。

そういう意味で、非常に素晴らしいダークヒーローだと思っている。


○総括して

いやおすすめなんだよ。そんなこんなを色々考えられるいい作品だと思うよ。
ただ、そのせいで、誰かに見てと声高に言えないのが難点でもあるのだが。

……『楽園追放 -Expelled from Paradise-』に関しては、ほら、アンジェラのケツとか、物語がわかりやすいとか、いろいろ語りやすいポイントがあったから……。

2019年6月9日日曜日

『A-X-L/アクセル』感想

予告編 https://youtu.be/YO-MeyGi3hw

なんかもうね、ジャケットを見た瞬間に「おっ、そうだな。久々にこんな映画も見るか」って思える。
それぐらい、わかりやすくて、味のある、そういう映画。

……を期待していましたよええ。

謂わば『ターミネーター2』『ベイマックス』の系列。
 アニメならば『翠星のガルガンティア』

そんな展開のストーリーを。

さてさて実際に蓋を開けてみたら、やっぱりそういうお話。

そこに文句を言うつもりなんてない
「そうそうこれこれ、これを見たかったんだよ」という井之頭五郎ちゃんみたいな気持ちになるのを求めていた。

だからこそ、そういうオチを見たい人なら見ても良い映画だよ。とは言える。


…だが、微妙! 微妙なんだ……。


前述されたような映像作品を見たことのある人はきっとわかるはず。
既に面白味の確立されている、ロボットモノだからこそもたらせる感動の場面。

さてそこに至らせるためには当然、ストーリー含め、必要なものがたくさんある。

個人的にはこの作品において、足りていないのは3点。



○ロボットとしての、無骨さや危なっかしさ/愛嬌や愛着――というギャップ

ターミネーターのシュワちゃんは、
人型アンドロイド兵器として非常に怖い。ウィンチェスターを片手でぶっ放し大型バイクを駆る。片腕が千切れようとも表情筋一つ動かさない。
だが、「笑ってみろよ」と言われて笑えるだけのシュルレアリズムなジョークは、持ち合わせている。

ベイマックスは、むしろ逆の売り方で来た。
見た瞬間から愛嬌たっぷり、ロボットとは思えないモチふわ感。トコトコ可愛さに溢れて置きながら……。
戦闘用チップだけになった瞬間の、あの破壊力と怖さ。

……そういうギャップがあるから、その間で葛藤する様を見せられる。そこが良い。好き。


一方で『A-X-L/アクセル』は……
「ほら、犬っぽい見た目と、動きだ。可愛いだろ?」という感覚で作られたのが視える。

言っとくけどな! 剥き身のT-800って、フツーに怖ぇからな!
それの犬版みたいなデザインされても、縮尺さえもかなりデカいせいで、やっぱし、愛嬌を感じるまでには至らなかったかなぁと…。

すまん。そんなに可愛くねぇっす。


だがそれに関しては、もう一つアイデアを捻ればよかったはず……
具体的には『トランスフォーマー』のバンブルビーが、なぜあんなに可愛いか? という話。

あのデカい図体で、無邪気。気がつけばなんかやらかしちゃってる!
「んもーほっとけないんだからあの子ったらー」という、お母さん的な庇護欲を誘うキャラクターしているから、バンブルビーは可愛い。

一方でアクセルは、割りかしどころか、かなり従順。

せっかく犬みたいなデザインなんだから……
どこかの庭先のパピヨンに挑発されて、吠え返しちゃって「コラッやめろ!」と主人公に叩かれて「くぅ~ん」といじけるぐらいはやってほしかった。
そしてその吠える声が壮絶すぎて卒倒しちゃうパピヨンの飼い主お婆ちゃん、みたいなコメディ部分がないのが、ちょっとね、悲しいよね。

無邪気しているシーンは確かにある。あるんだけど……
「この場面は無邪気な側面をがっつり見せるから! 他では見せない!」とばかりな作り手の生真面目さが透けて見えるせいか、あんまし印象に残らない。

残らないから、そのT-800みたいな強面のインパクトのままで、ギャップを覚えるまでには至らなかった……。



○敵の存在

ターミネーターは、未来から送られてきた敵から、主人公を守るために戦った。
ベイマックスは、なんやかんやで真相にたどり着いてしまった。

さて「軍の兵器として開発されたモノが脱走した!」からスタートしたんだから、敵はわかる。

脱走した新開発の兵器を追いかける軍人たち! そして制作に携わった暗黒メガコーポの連中!

……が、カメラを搭載したドローンをふわ~っと飛ばして捜索っぽいことをする。

兄ちゃん兄ちゃん、僕ァ思うんだけど……ドローンを飛ばして捜索させるならさ、
そんな渡り鳥みたいな描写じゃなくて、至るところへ一つずつを蜘蛛の子を散らすようにブワーッとばら撒く方が、正しくないかい?

そして敵の連中は特に活躍しない。
主人公たちを感知しておきながら、後半までは、主人公を放置する理由だけを並べている。

特に活躍しないから、悪役として恨みを集めていない。
すると、敵と味方が衝突する瞬間になっても、鬱憤を溜め込ませていない。
カタルシスが生じない。オチにパワーが生まれない。
悲しいね。

一方で活躍をするのは、主人公の近くにいたいじめっ子……ここはちょっと感動した。
「そっか、いじめっ子が、いじめられっ子の飼っている犬へ攻撃するのは、むしろお約束だからな!」と。

問題は、その犬がめちゃくちゃ怖いデザインしていることだが。

いじめっ子がお約束通りやられてしまう。
だがその前段階から「いやちょっと待てお前。見た目もめっちゃ怖いし、怖い思いもしただろ? むしろお前勇敢だよ」という同情をしてしまうことにあるんだけど。

――ちなみにその直前のシーンは少しだけ可愛かった。



○脚本の粗

先述の通り、悪役がそんなに悪さをしていないのは、実は、理解するし、動けない事情があるのも納得できる。
その立場らしい振る舞いであるからこそだ。
それは中盤=第二幕のこと。

それより問題なのは序盤=第一幕。
登場キャラクター、舞台、主人公の葛藤=どんな問題を解決するのか……をバーッと並べることが重要。


だがその前段階に……『A-X-L/アクセル』の主人公は、
軍用ロボット犬アクセルなのか? それとも彼を見つけた青年なのか? というところに着眼しないといけない。

そうしないといけないからこの映画は微妙なんだと思うな。

青年の話にするならば…
・いじめられっ子的な冴えないポジション。
・世渡りもそんなに上手じゃない。
・だがオフロードバイクの腕ならいじめられっ子に勝てる……と思いきや、それを逆手に死にかける。

――いじめっ子への復讐、みたいな話に思えなくもないんだが、
青年は優しいのか流されやすいのか、そういう憎悪の描写を、この段階でしない。


ロボット犬アクセルの話にするならば…
・登場段階で、脱走中。
・青年を追い回してズタズタに損傷。

――なりゆきで治してもらうところはともかく、
その直前から既に青年を「信頼できる人物」にしてしまっていることが問題で。

なぜそういうことをしたのか? という動機は全く描かれない。
「だってそういうもんでしょ?」とばかりに。

そこが良くない。そこがないとなりゆきだけのモノになる。

理由があるから、行動がある。その結果を見て、理由が果たされたかどうかで、印象が変わる。
理由をすっ飛ばすと、結果を見せられても「わーよかったねー」で終わり、訴えかけるものがないことになる。

……どちらが主人公だったとしても、ちょっと宙ぶらりんな冒頭。


――以上3点。だからシマらない。

なんというか……お話の都合上「世間に見せないで如何にこのヘンテコ物体を隠すか!?」というスリリングさが必要だと思うんだけど、
それを大胆カットしたせいで、世間という存在が消えて、こじんまりした映画として収まってしまった、という印象。

でも好きなんだよこういうお話の映画は。だから愛を持って文句を言う。言った。

2019年5月26日日曜日

飯を食わねど漫画読む

ここ最近で、いつになくたくさんの漫画を読んでいる。


職場と家とを行ったり来たり。
その間や、魔が差した時には小説を開く。次にどんな映画やらアニメやらを見ようかぽやぽや。
ふらりとダーツを投げてスコアに首を傾げる。
賽の河原か、アイドルマスターは「デレステ」ことシンデレラガールズスターライトステージと、「おシャニ」ことシャイニーカラーズを、石を積むようにひたすら反復作業。
いつもどおり文章を書きまくって、雑念や私事はTwitterにつれづれなるままに。
そこそこのヘッドフォンから流れ続ける音楽を耳から離さず、煙草をぷかぷかしては、ガラゴロ立ち並ぶリキュールたちを眺めながら次の一杯を模索する。


…んー。日常。ザ・日常。
どこにでもいそうな人間の、どこでもありそうな日常風景の寄せ集め。
進歩なし変化なし、まっ平らな毎日。

というわけでもない、といえばそうだ。

原稿も書けば進むし進捗は悪くない。
読んでいる小説は面白い。たまに見る映画もだいたい面白い。
アイマスでもレベルやら経験値やら貯まるものは貯まる。
聞いている音楽だって心地良いし、煙草も酒も美味い。


が、やはりニンゲン。
同じことばかりを繰り返すとメンタル的なものが澱んでいくのか、
あるいは習慣付けられた風景の外を見れないと諦めてしまうのか、
好奇心やら感性のどこかが、ぷちぷちと小気味よく潰れていく。

簡単に言えば飽きるのである。同じことばっかりだと。
それでも強引に押し進めようとすれば、濁りきったアレコレが自我を形成する何かまで浸潤してくる。

下手に変化を望もうとして、できもしないことを始めたり、奇行に走ったりして、
最終的に・傍目からして:自傷行為とさえ見える行動ばかりすることとなる……………………んじゃないかと思っている。


というわけで、浸潤される前に新しい風を心に吹かせなければ、と思い立って始めたのが、漫画を読むこと。

実のところ、アニメやら映画やらはたくさん見ている自覚があるのだが、
ゲームに至っては人並みにすらできないし、初期投資の金がかかる割に、消耗する時間が多すぎる。
じゃあ、サクッと進められて、今までと違うものは……?

と行き着いたのが漫画だった。

人並みには読んできたはずだが、確かに最近、あまり「新しいタイトルを開く」ということをしていなかった。

ありがとうTSUTAYA。おかげで本棚と財布の心配をしないでガンガン読み進められる。


…………前置きが長い。


ともあれ、そんなこんなで今まで読んできたタイトルの中で、面白いものはたくさんあるが、気になったものはまた別のもの。

『ひとりで飲めるもん!』コナリミサト
https://www.amazon.co.jp/dp/483223658X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_ewD6CbJ3BTH3A

単刊で、最近出たばかり。

ざっくり概要は「仕事に疲れた女性が、近所や帰り道のチェーン店で飯を食って酒を飲んで、リフレッシュ! 明日からも頑張ろう!」である。

毎話これを繰り返すだけで一冊が終わっている。
たらーっとほわほわーっと読み進めるためなのか、絵柄も柔らかくて、力を張らないといけないと思うような部分がない。
なるほどそういう作りなのか、と第一話で悟らされる造りの妙。

ならば郷に従おうとばかりに、たらーっとほわほわーっと読み進み、ほわぁっとした読後感が残った。
もはや主人公の名前すら覚えていない。むんっ!

すごい。
「それでも面白かったんだ」と言いたい自分がいることに。


――なんでだろうね? というのが今回の本題である。


類似作品というか、自分の読んだ限りで似たコンセプト:「毎話飯を食うか酒を呑むかすることがメインの漫画」をピックアップすると、


『孤独のグルメ』久住 昌之
https://www.amazon.co.jp/dp/459405644X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_spD6CbXBCW2SQ

『お酒は夫婦になってから』クリスタルな洋介
https://www.amazon.co.jp/dp/4091872506/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_atD6Cb8DP702J

『IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS After 20』半二合https://www.amazon.co.jp/dp/4065119006/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_suD6Cb082798R

おい最後お前サラっとアイマスねじ込むんじゃねぇ、と石を投げるのはやめてくれ。
実際そうなんだ。

読み始めた理由は、間違いなく、アイマスだから、だけど。


――閑話休題

このテの作品は最近確かに増えてきているな、と思ったのは、週TVアニメ『たくのみ』の放映時期だ。そういえば原作は漫画だった。

当時ルームシェアをしていた同居人たちが、毎週このアニメを楽しみにしており、
新しい話が放送されるとそれを1日1回見て、次の話までには合計7回ずつ見ているという異様なハマりっぷりを見せていた。


ちなみに、そんなジャンルにトピックした記事を読んでいたことも思い出した。
少し趣旨は違うけれども。
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO18093240W7A620C1BE0P01?channel=DF280120166618&n_cid=LMNST011


一体全体、何が面白いんじゃ? というのは『ひとりで飲めるもん!』を読んで気づいた。

自分たちと同じような、どこにでもありそうなライフスタイルと、もたらされる疲労。
そういう「ありふれた」感を、それこそ退勤打刻を切った後の、脱力しきった恍惚さを伴って、読者に寄り添っていながら…

飯が美味い酒が美味い、と日々を生きている自分たちの、ともすれば理想的な人生の楽しみ方をしているのだ。


かつて自分は、(そして今もたまに)飯を食うことが非常に億劫でならなくて、栄養失調になったことが何度かある。

長~い前置きの中で、日常に飽きると自傷行為に走ってしまうとさえ自分は言ったが、
澱みきった生活をしているニンゲンになると、飯を食うことさえ億劫になることが、ままある。

飯を食うことに対する感動体験すら、薄れてしまっている。と表現すればいいのだろうか。

味はわかる。甘いとか苦いとか辛いとか酸っぱいとか。

だが最終的な……美味いかどうか/「美味い!」と言える自分かどうか――というのは、また別の話だ。

そこの判断力や、判断するための自分さえいなくなってしまうことがあり……
食事が単なる栄養補給だけになり……
相対的な価値が、他の何かに劣り……
最終的には、食事が億劫になる。

たぶん、このような体験をしているのは自分だけではないだろう。

自分は煙草に逃げ、酒に逃げ、を繰り返したが、
そう煙草の銘柄だとかカクテルの種類だとかを調べだすほど、カッコつけたがりな人は多くない。

だが自分でさえも、逃げたところで結局、
食事と向き合わなければ(=ちゃんと食わなければ)駄目なのだ。仕事中に倒れて迷惑かけるから。

すると、逃げることのできない人は……
無邪気なまでに飯が・酒が、美味い、と喜べないんじゃないか? と思っている。

違っていたら申し訳ない。


だがそう解釈すると、このテの漫画が流行りだした理由も、わかってくる。

退勤後の脱力感……その後に待っている。食や酒。

それを喜んでいる姿は、決して「自分にできないこと」ではないから、
仮託されたカタルシスや、代替行為としての解消ではない。

本来忘れていた感情を、ふと思い出す……「実家のような安心感」であり、懐かしく温かい気持ちだ。
同時に、そのキャラクターの無邪気さを楽しむことでもある。

じんわりと響いてくるのだから、帰りの電車内でほわぁっと読み進めて、顔をほころばせてしまうのも、無理はない。


「物語にはテーマを!」や「ストーリー! 展開!」など言っていた自分には、到底考えられなかった概念だった。

たぶん他の人はすでに気づいているのだろうが、とにかく文章にまとめたくてそうした。

許せ。


……というわけで、これから『くーねるまるた』を読みます。

https://www.amazon.co.jp/dp/4091848478/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_NxD6CbNGQWEZX

2019年2月1日金曜日

『さよならの朝に約束の花をかざろう』

若さってなんだ。さよならってなんだ

振 り 向 か な い こ と さ

……は別にいいとして、またも今更に見ました、通称で「さよ朝」

監督・脚本は岡田麿里 制作はP.A.Works 公開は2018年の2月。
 
この繋がりを見て私は「あ、『花咲くいろは』の……」とか思っていたら、
演出に長井龍雪さんも入っており『あの花』とか『ここさけ』を彷彿とさせる。

これを書きながら、初めてPV見ましたけど、もうそれをゴリ押ししてんのね。うん


……んでまあこのタイトルを私が知ったのは、周囲がTwitterで騒いでいたからで、
当時の周囲の評価も「溜め息が出るほど綺麗な映像に浸れた」という感想が多かったイメージ。


んで当時の私はと言えば、
Twitterを中心点とした創作企画に熱が入り始め、同時にスマホのゲーム『アイドルマスターシンデレラーガルズ スターライトステージ』にハマり始めた頃合いで、ちょっと映画はいいかなー、なんて思っていた頃………見送ってしまいました。

そしてついさっきに、DVDを見終えたわけですはい。

いや泣いたね。ボロボロになっていたね。

だけどこれを「良い映画である」というわけにはいかんのや、というなんとも微妙な気持ちになっているのも、また一つの素直な気持ちでもありまして……。


あれだろ? お涙頂戴で泣かされただけなんだろ?

……というわけじゃないんですよ。

そも「お涙頂戴」という言葉が、
「本編を見ながら「あーはいはいここは泣かせるシーンだろはいはいかなしーかなしー」とシラけしまっている人間の発言」
だと考えているので、そうじゃなくボロ泣きしてしまっている人間が言えるモノじゃなくなっているはずなんですよ。

じゃあ泣くほどの映画なのか? というかお前の涙腺が脆いだけだろ? というのを自分の立ち位置含めて説明します。


PV見て確信したのは、話のオチはとっくに見せていること

冒頭で
 ・数百年も長生きする一族の女の子が主人公であること/別れの一族と呼ばれていること
 ・フレーズ『愛したら本当の一人になるから、愛してはならない』『一人ぼっちが一人ぼっちと出会った』

 ……が示されている段階で、明確なんですよね。

「あ、これ寿命モノか!」と。
 ※寿命モノ――人間の人生100年弱と、それ以上を生きるエルフだとかヴァンパイアだとか、俗に『中世・西洋・ファンタジー』系フィクションの生き物たちの、出会いと別れ、愛し合っていてもいずれ片方が朽ちてしまうというネタ。

おそらく、ある程度詳しい人ならその時点までは察しがついていることでしょう。

ちなみに本編でも、冒頭でその部分の情報は提示されるため、私自身も「あーはいはい出会いと別れがあるんだね」とは思っておりました。
タイトルで「もう別れがオチに来るんでしょ。死ぬとかそういう、はいはい」と思ってはいました。
……そう、その時点の私の気持ちは、明らかにシラけている人間のそれなんです。


いちいち美しすぎる画面は、その信憑性を損なわせる

PVにもある通り、俗な『近世・西洋・ファンタジー』な世界観を基盤とし、豊かな自然や鉱石資源の建築物が背景として並んでいます。
中世っぽい? いやいや、鉱物資源を採っていたりと鉄鋼場があったりと、世界史でなら産業革命の後なので、近世であっているはずです……というかそれまで含めて狙いでしょうし。

P.A.Worksのアニメ――特に『花咲くいろは』で、
撮影技術は素晴らしいものの、やはり小さな場所にある反射光とかが大好きなんだろうという印象は変わらず、健在な様子。
――陽光を浴びて鏡のように煌めく水たまり、宝石のように輝く葉っぱの端にかかった水滴。そういう細かな反射光が、ともすれば光源である太陽の光よりもキラキラ光っている。

個人的に『花咲くいろは』で、それは主人公が目の前の日々を精一杯にがんばる(=ぼんぼる)姿という青春模様の演出として機能していますが……
さて今作の世界観として、それは合っているのか? と聞かれると微妙な気持ちになります。
鉄鋼業の工場が並ぶ一帯の酒場、という場面にまでそれを使う必要があるのか? というのは否めない。

確かに描写こそされている、口元を覆う布巾がなかったせいで煤に黒ずんでいる目元や、見るからに炭鉱夫たちの汗臭そうな汚れきったシャツが溢れている。細かなディテールにまで手が行き届いている。

…しかしそんな画面で構成されている中でキラキラがあると、その汚れ加減に対して浮き上がって見えて、むしろその生活感さえ損なわせているように印象します。
「え、そんなに綺麗な場所だっけ?」「この時代ってそんなに小綺麗でいられるんだ……それほど器用な道具があるようには見えないけど」などなど。

むしろ、世界観をあまり見せていない類の映画に対して、生活感が欠落するのは非常にまずいんじゃないか……そんな気さえしています。

そんなことを思ってしまった自分――という段階で、映画を見ている真っ最中にも関わらず、映画から距離感を感じてしまったのは言うまでもありません。


じゃあこの映画の何が「泣いた」の?

・オチが見えてシラけている
・映画の世界観や生活感から距離を感じた

……この段階から、私はある一点でこの映画がひっくり返ったと思っています。

主人公の視点で三幕構成をするならば、
第一幕で「それまでの生活との別れと、自分の人生の寄る辺を見つけた出会い」
第二幕で「人生の寄る辺としてある程度の位置を確立して、関係性を構築した」

……の後、第二幕の後半。
冒頭から連なる不安からのセントラルクエスチョンは終わり、本題が始まる段階。

キャラクターたちの叙情。
特に、エリアルという少年が大人になることへ意識を向き、そして育て親から顔を背ける、反抗期とも呼べるだろう転換。

このあたりから途端に、主要人物の台詞が叙情的に変貌していくのが、この映画の特徴とも言えます。
叙情的になるからこそ、自分がそれまでに見てきた映画とは違う点を見つけることができ、同時に「いやそこはもっと本性を隠すような挙動にこじれてくるもんだよ」と反感を呼びかねないものになる。

――そんな空気の転換を感じながらも思わされたのは、
主人公の女の子――マキアが、ただの女の子だったはずなのに、母親という存在とは何なのか、自分はそれに相応しい姿になっているのか、という葛藤が浮き彫りになっていくことでした。


そして物語は第三幕を迎え、一際大きな事件を迎えていく。
その中で様々な思いがぶつかって、すれ違って、こじれた愛は燃え上がる。
 ……あー、なんで岡田麿里の描く男には、ゆきあつを具体例に、こういう「無垢な時代の心をいつまでも大切にし続けたまま成長した結果として他の色んなモノを歪にこじらせてしまった男」が出てくるんだろうな、とも。

画面はどんどん暗く汚れていく中で、主人公は本当に綺麗な昔の時代の衣装を、なんの説明もなく着ている。
…物語の文脈から紐付ければ「昔の綺麗なままの生活を取り戻して、その間をすっぽり忘れてしまおう」という意図から持ち出された衣装だ、という主旨があったのかもしれませんが……。

そこで思わされたのは「冒頭にあった生活感が本当に綺麗すぎるままで保たれていたから、この煤けた時代の世界観でさえ、主人公には輝かしい刺激に溢れていたのかも知れない」ということ。

少女が母親になっていく中で、一種の逞しさを身に備えていくのは言わずもがな。そのために一種の汚らしさを感受していくのは必然とも言えるでしょう。
母親という存在…あるいはそのテーマである時点で、人生や生活感を抜きにすることはできない。
煤けたり陰謀がドロドロする城下町の生活こそが、主人公マキアにとっては青春と甲乙つけがたい、成長の煌めきがあったんだろう。

そんなことを思ってしまった段階で、自分はこの無駄とも呼べるほど綺麗な世界観を「確かに子供のころだったら夢見ていたかも知れない世界だ」と肯定しました。

岡田麿里という監督が描いた世界観と時代設計が、なんとなく掴めてきました。

『ドラゴン的な存在が絶滅危惧種/主人公たちの一族もそれを追うように、歴史からひっそりと姿を消していく最中である』
 ――という構図は、なるほど親から子へという世代交代のメタファーとしても機能すると共に、
 世代交代とは別に一人の人生の輝きもまた、歴史から消えゆく存在の慟哭と同じく、輝かしく見えるだろう、と。


そして、「寿命モノ」物語としてのラストを――「さよなら」を迎えます。

私の心はすでに、マキアという聖母様を見上げるような心境でした。


……………これが………これが………………………バブみ………ッ……!!



○というわけですごい映画です! おすすめです! ……以上!

 と言いたいけど最後に一つだけ。

「こんだけ読み解かないといけないほど作り込んだことを評価したい。
 でも一回見てすぐにそれを全部わからせるには難しすぎるくせに、
 それだけじゃない別の夢まで織り交ぜてあるから、
 それを理解するにはしんどいぞこの映画」

2019年1月26日土曜日

『ズートピア』とはなんぞや

なんなんぞや

なんとまぁ『インクレディブル・ファミリー』や『シュガー・ラッシュ・オンライン』まで出回っているというのに、
なんで筆者は今更すぎる『ズートピア』なんだ。

……いや見てたんですよ? 見てたんですよ劇場公開の終了間際で。
でも疲弊が溜まっていたのかあんまり頭に入らないまま終わったせいか特に発言すらできないまま、印象は薄れて、終わったんだけど。


さて「なりたい自分になれるという夢は潰えて都会の荒波に超ヘトヘトなオノボリ田舎っ子」というウサギの主人公はなんだか、新宿のコクーンタワーに通い始めたものの単位を落としまくる自堕落生活を謳歌する学生さんみたいだね、みたいなくだらない印象はさておいて。

「肉食動物と草食動物は、フィクション上ではいがみ合うものである」

という言葉を突然に言われて「そりゃまあそんなもんでしょ」というバイアスを持っている人たちはきっと、先述のオノボリ田舎っ子の文章にさえほんのり草を生やしていたのかもしれない。

「そりゃ食物連鎖から考えればそう考えてしまうのもおかしくないよな」
という前提条件が知識としてあるからなのだろう。

そうじゃないというのなら、どうするんだよ? ――的なことまで含め、一瞬だけ考えさせられたのがズートピアという映画だった。
あくまで一瞬だけ、である。


「差別とは意識して行われるものなのか?」

YESと思った人の考えはたぶんこうだ。
「俺も過去に傷ついた経験がある」「あれはあからさまな悪意だった」「だから故意的だ」
うぇいうぇいうぇい。まあとりあえず席につくんだ。
いつも飲んでいるコーヒーをアイスにしよう。ガムシロは追加で2個ぶちこんで、ゆっくり話そう。だが君の過去の話はしない。もちろん筆者のもだ。

NOと思った人の考えがわからんわけでもない。
「うっかり口が滑ったんだ」「でもあながち間違っていない部分だってあるぞ」「だから受け取り方次第だ」
おーきーどーきー。保身のための正当化は思考停止からの自堕落を招く。
コーヒーはとびきりホットにして、香りを楽しもうじゃないか。

……厳密な正解があるとすれば「どちらか片方でいいはずがない」。
どちらかと問われればどちらかになろうとするのが白黒はっきりしたい人間のエゴなのか、自分はこうであると定義することで安心しておきたいサガなのか。

悪意はある。うっかりもある。それを決めるのは受け取った側なのは確かだが、故意的かどうかを隠すことだってできる。


ズートピアという世界観の面白いところは、一見して「超・バリアフリーの行き届いたテーマパークのような景観」にあるのだろう。楽しそうっすね。

そんな背景や小道具をガン無視するかのごとく、語られる物語は「所詮ウサギ!」「狐は姑息!」という、潔いまでの偏見オンパレード。

そんな二人がタッグを組んだ!? 草食と肉食、相性は抜群なのか!? とか言っている場合じゃない。
冒頭から、狐が狡いことをやっているなと思いきや、主人公格のウサギも随所随所でひどい屁理屈をこね回している。
「ペンを柵の向こうへ投げた場面」ならばネタバレを回避できるだろうか? おめぇ相棒をそんな扱いするのか、と言いたくなるレベルだった。

……ともかく自分の目に見えたのは、このタッグは超人ヅラして正義の心を語るタイプじゃなくて、トムとジェリーじみたダーティペアだ、ということだ。

このウサギ、「1日で100件やれ」と言われたら「昼までに200件やってやる」というどこぞの営業マンが口角泡を吹きそうなことを、鼻を鳴らして掲げてみせる。
「自分は有能です」と上司に進言するのも躊躇がない。なんか怖そうなマフィアにだってズケズケとモノを言う。
……こいつ身の程知らずだなぁ、と思わせるぐらいが小気味よく、ちょうどいい。


さて先述に立ち返ろう。
「Q.食物連鎖的にいがみ合わないならどうするんだよ?」
「A.食物連鎖がなくたって人間もいがみ合ってきただろ」

第二幕で一度、最初に示された事件のセントラルクエスチョンが終わったかと思いきや、新たに生じた問題の幕開けを示したのは間違いなくウサギだろう。

「だって事実を言っただけ」と見事に開き直りかけたウサギ。

所詮はウサギ! と一気に抑圧されてきて「差別しないで!」と声高に叫ぶウサギにさえ、そのバイアスはあるんだぞ、と。
その事実こそが差別であり偏見を持っていることの証左なのだとようやく悟ったのだった。

第二幕の敵が示す理想は、思想が一致しない者の淘汰と多数決の暴力。
「世界をより良くする!」と意気揚々と言っていたウサギはどうやって世界を良くするのか?

……え? ウサギ? どうやったの? ねえウサギ? あっちょっと待って、あ、そうやって終わるの? あっ、そう。

一瞬だけ考えた、というのはその終わり方がそうだったから、というのもそうだ。

が、考え始めるとキリがない話題でもある。
「自分が常識であると思っていたものは実は偏見だとしたら?」にカルチャーショックを足してみるとわかる。

「えー! 外国とか地方とかってこんなことやってんだー!」と自分の常識が揺るがされることに対して
「じゃあ今まで間違っていた」とか「きもーい」など、とにかく次の印象を言葉にした直後に「これすらも偏見なのでは?」をぶつけてしまい、永劫のいたちごっこを反復する羽目になる。

「動物が人間っぽい動きしているー!」というデザインで「これは擬人化という人間主体の偏見を皮肉るところまで想定された映画なんじゃないか?」なんて部分まで考えてしまう。

とりあえずよくわからない部分は放置してガゼットさんの歌で踊って吹き飛ばそうぜ。

そんな映画でした。

2019年1月17日木曜日

TVアニメ『エガオノダイカ』について

超・久々! ……の連続なのでいい加減、今年はブログらしい何かができると良いね。
具体的にはアニメとか映画の感想をやりたいよね。

ということで某サイトにて「応援します」と宣言したTVアニメ『エガオノダイカ』についてつらつらやっていこうかな、と。

~ クッソ長い前置き ~


“タツノコプロの55周年記念作品”というのが最初の印象なので……

「お前タツノコ!
 『夜ノヤッターマン』は中だるみがひどい構成で!
 『Infini-T Force』も劇場版で企画倒れにさせおって!
 『ガッチャマンクラウズ』は超面白かったし大好きだけど、受け入れ難いタイミングで受け入れ難い内容の二期にしおって!」

という罵倒を真っ先にやってしまう。

監督は鈴木利正さん。
 ロボットモノという点では『ナデシコ』の超・ビッグネーム:サトタツの下で『輪廻のラグランジェ』をやっていた、というのが印象深い。続いて自分の記憶だと『とある飛空士への恋歌』かな。

それを気に、一度アニメから離れかけていた身なので細かく・詳しくは覚えていない。

だが最近の流行や物語の連続性を眺めていくと、
ロボットアニメは大好きな身としては、ちょっと微妙な心境/近況であった。

「昭和の時代に台頭していたヒロイックなロボット像は、ガンダムとマクロスによって兵器としての側面を作り、ボトムズでそれを増長した結果……エヴァでロボットらしからぬ視点と設定を持ち込まない限り、その記号性を活かすことができなくなってしまったのではないか?」

「兵器としての側面を見るにも、ストライクウィッチーズに始まり艦これ、ガルパンと掛けてきた『萌えミリ』の系譜に食い潰されるのではないか? というかむしろそれが、ゼロ年代が終わった10年台以降の物語文脈として正しいのではないか?」とさえ思っていた頃だった。

何しろ大注目されていたビッグネーム『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は、
メカ好きなら盛り上がれるシチュエーションと、エヴァの系譜であるロボットらしからぬ設定や画面構成をふんだんに盛り込んだ作品であるにも関わらず、脚本の尺の配分や、主軸である少年少女たちから世界と大人への問いかけを、見事に不完全燃焼のまま片付けてしまったからである。
奇しくもエヴァが完結していない今、エヴァを踏襲しようとした構造のアニメが故に、たどるべき必然だった……と考えればうなずいてしまう。

だが「いやそうじゃないことだってできるでしょ」と言いたくなってしまうのは、
『蒼穹のファフナー』の第1話=露骨なほどの「うわぁこれ第三新東京市やあ!」を見てから、最新作の『EXODUS』に至るまでを見続けてきたから、かもしれない。

だが『シンカリオン』が、ロボットモノが今一度、新しく子供向けとして生まれ直して再びヒロイックになる……というのも捨てがたいし、その夢は是非ともわかちあいたい。


……それはさておいて、私のようなオタクはどうなるのか?


『ガンダムUC』から『NT』への系譜は喜べるだろうか?
『鉄のラインバレル』を「マンガでも最高にロマンを詰め込めるロボットものの金字塔」に終わらせていないか?
『フルメタル・パニック』以後、小説媒体でも楽しめるロボットを見ていないから何度も周回してしまうのは懐古主義なのか?
『ゼーガペイン』を「SF要素にフィーチャーしたロボットもの」として舞浜の空へ想いをはせ続けるのか?

ロボットアニメへの追求心は、好きだからこそ呪いのように深く、また同時に、新たなロボットアニメへの登場は祈りのごとく祝福して迎えなければならない。


――そんなところに出てきた『エガオノダイカ』だ。


設定を見る限りでは、「かなり本腰を入れた兵器らしい側面のメカ」として、それも「ガッツリと人類同士の戦争中」である設定だ。
人型巨大兵器という側面で見るメカなら、誰もが憧れるシチュエーション。

最近作では『ブレイクブレイド』が実にノスタルジー溢れる哀愁の人間ドラマを描いてくれているが……

ぶっちゃけよう。
「え? 大丈夫? このアニメ、昨今よくありがちな「とりあえずアニメーターに仕事を振るために作るしかなかった企画」としか受け取りきれない、ハシにもボウにも引っかからないで終わりかねないんじゃないの?」
と思っていた。

……さて複雑な己の心中をぶちまけたところでアニメ本編のバイアスは変わらない。

本編を見ないことには始まらないのだ。


~話数ごとの感想が並んでいく~


・第1話 (視聴:2019/01/17)

まず冒頭で描かれるのは「これが少女の物語」であることだ。
「15歳だと大人の仲間入り」と言葉にある通り、思春期を経て大人になっていく少年は、在田の目には今のところ「気合と根性!」を叫んで無鉄砲に突っ込む存在に見える。
一方で王女様としての主人公らしきヒロインは12歳。無邪気で無垢で優しい少女。

ここさえわかればいい、とばかりに説明に徹していた印象で、物語となる部分は1話の最後だけだ。

……正直アニメの第1話は「世界観や主要人物を並べる段階が忙しくて、話を盛り上げるのは難しいのでは?」と思っている自分がいる。

確かに世界観は特殊だ。
・どうやら地球っぽい惑星から移民した直後で、ようやく土着できたばかりらしい。
・すごいエネルギーを生み出す鉱物があるらしいが研究はそこまで上手く行かなかったらしい。
・王族制がある主人公側の国家で、しかし早速それを避難する状況が生じている。

中盤でとにかく説明に徹していたので、早速モニョっていた自分もいた。「今それ説明する必要ある?」と。

脚本が黒田洋介ならば「説明は後に回し、第1話ではインパクトをつけるために、いきなり状況の変化を冒頭に持ってくる」という手法をとる……が、確かに並んでいる情報を見る限りでは「そこまでの状況を持ってくる必要もないなら、説明を前に持ってきたのかな?」という印象で完結した。

んで、模擬戦という形でロボット同士の戦闘が入り込む。
パイロットスーツは光り、メカは細かいギミックが動き、3DCGの良さを活かしたカメラワークが炸裂する。
ああ、良い……これ、これが見たかったんだ、と唸るシーンは様々あった。
が、模擬戦だと裏付けされてしまうと盛り上がる印象さえ見せてくれない。

だが「ロボットが歩道橋をくぐる」ってのを見たかったのが叶ったために、それで満足でもある。

そして物語の引き……期待するじゃん?
王女は知らないで戦争するんだという少年たちの踏ん張りと、それを知らずにあれこれと都市で希望をはせらせるヒロインという主軸になるんかな? と……。

・第2話 (視聴:2019/01/18)

物語について語ろう……とはいえほとんどない。
というのも、ロボットであれ異能であれ剣術であれ、バトルシーンをバトルシーンとして濃密に見せようとすればするほどに、バトルシーンへ尺が割かれて本筋と反れてしまうのが、エンタメ的な映像媒体のサガでもあるからでもあり、
この話数で一番やりたかったことであろう「決定的なターニングポイント」のため、フラグや雰囲気の醸造で忙しなかったためでもある。

1話を見終わった後、上記の文章を書いても尚、あまり余った期待感が表出した、

そして2話を見終わったばかりの……
ついさっきの私

……さて、一息ついて噛み砕こう。
第1話は見事なまでに「少年少女の物語ですよという顔」をしていた。
が、しっかり冒頭の一言目では「とある少女の物語」と言っていた。
そう始めから、この物語の主人公は、戦場に立たされたあの少年ではなく、あの少女なのだと。

まんまとミスリードに踊らされていた自分を恥じると共に、遊び半分とは言え予言を的中させた自分へ拍手を送る。

次いで、気になるポイントは物語のセントラルクエスチョンだ。
1話で見事に「少年少女が戦争に巻き込まれる物語」というミスリードをして、見事に盤面をひっくり返した、次以降はどうなるのか?

順当に見ていれば思うのは、少女の復讐劇に似せた快進撃だ。
1話で奇天烈な発想にて戦況をひっくり返した/2話で戦争の盤面ゲームをやってみたいと言った……というポイントからすれば、『コードギアス 反逆のルルーシュ』第一期のような敵軍勢を如何に叩き潰すかという勝負をかける……など。

実際に戦闘シーンでは、平野で陣形っぽく見せかけていたかと思えば、早速大混戦という、中世もびっくりな戦い方をしているのだ。
カメラワークやギミックはやはりかっこいいために、これは姫君の快進撃をする余地として、世界観の戦法を低めのハードルとして設けたのではないか? とも考えられる。

だが物語そのものはそうならないことはOP――ひいてはCパートで示唆されている。

敵側の主人公格とも呼べるだろうキャラクターたちが一気に並んだ。
物語構造において、まず出てくるのは『ロミオとジュリエット』的な系譜だろう。
一国の騎士/対立国の姫。そこがどう出会い、そしてどう和解していくか……。

そういう話になるんだろうなと期待しつつ、
だが主人公がショックに翻弄されることこそ次の話の役目だろうと思って、
一方的な想いを馳せらせることにしよう。


・第3話 (視聴:2019/01/25)

「戦争モノ」において戦災孤児というのはとても使いやすい小道具として機能する。
子供という無邪気な存在に、戦争という大人の事情が噛み合って人情を煽ることに、抵抗なく納得できる――というやつである。

あ、がっつり敵視点を描くのか。そう来たか……というのが見終わった自分の感想だ。

それまでの主人公だった姫様は物語からフェードアウトして、前話のCパートで出てきた敵国の騎士たちを、戦災孤児という小道具を用いてドラマを生み出した…という紹介パートとしての話だった、と考えれば適切だろうか。

「敵国が食料に飢えているからゴリゴリ攻撃してくる」という事情と合わせて、
「敵国側の主人公は、戦災孤児を相手にしてちょっと心が傷んだかな、と思わせておいて実はかなり冷酷な人間」という印象を持つことができた。

戦災孤児たちに恨まれ、顔もバラされることまで承知でやってのけた、地味に人情味溢れている隊長が「イカれてやがる」と発言して〆るのも納得である。

前話で急展開を迎えていたお姫様たちとは対象的に、淡々とした印象があっても実に味わい深い話の構成となっているために、この話は面白かったと言っておきたい。

テウルギアこと巨大ロボが、食料の入り込んだ要塞の中でどう動くか、というのは一つの見どころであったし、人間と巨大ロボが連携して作戦を進行するのも、あまり見ないためにぜひとも見ておきたい部分だ。

……さて今後、殺さずに逃したあの戦災孤児たちを伏線に用いても良しだし、もう一話で敵側の部隊へ急展開が訪れても面白そうだろう。

順当に考えればもう一話で急展開を訪れさせて、もう少し渋い人間味を出させるか、そのためのフラグを仕込むだろうか。

だが何より、
……どちらにせよ自分が一番楽しみにしたいのは、「お姫様がショックをどう受け入れるのか? あるいは受け入れきれていない状態なのか?」「どれほど最悪なタイミングでお姫様と冷酷そうな敵国の騎士が会うか」である。

さすがに次の話では……厳しいのかもしれない。




……

…………

………………

あの、すみません。諦めました。許して……許して……。